2011年4月10日日曜日

あたりまえのこと(11.04.10)


腰のねじれ  ヒトは、この世に生れて1年かけて「立つ、歩く」技術を習得します。一端、この技術を身につけた後は、意識して行うことはなくなります。
 ほとんどの日常動作は無意識的に行われますが、思うように動かせない体になれば、当然、不自由な生活を強いられます。杖や車イス、あるいは人による介助など、依存度が大きくなるほど、生活行動も大きく制限されていくことになります。

 今回の大震災でもそうですが、安全な水・空気・食物、電気、家、家族や友人など、あたりまえに存在していたものを失ってしまった時、あたりまえの事や物がどれほど大切であったのかに、気づきます。

 自由に動き回れる体の機能が損なわれた時、「立ち、座り、歩く」という日常の動作が何不自由なく、自力でできることのありがたさを痛感することになるのでしょう。

 けれども悲しいかな、ヒトは、あたりまえの事や物が、あたりまえに存在し続ける限り、そのありがたさや尊さに気づかないもの。

 失って初めて気づく、日常のありがたさ。
 「時、既に遅し」とならないように戒めて行動したいもの。
 しかし、これが、とてつもなく難しい。