2007年12月11日火曜日

すぐに使えるプログラム (07.12.11)

時間管理のマトリックス
ご存知の方も多いと思いますが、すべての事柄を重要か否か、緊急か否かで4つの領域に区分けをする時間管理のマトリックスという概念があります。

時間管理のマトリックス
▲時間管理のマトリックス

 通常は、緊急性のある第一、第三領域は、自然の流れの中で優先的に実行されていきます。当然、無駄な第四領域は、少なくしようと考えます。
四つの中で、最も重要な領域はどれか?を訊ねると多くの人は、「緊急で重要性の高い第一領域」と答えます。しかし、実は重要ではあるが緊急性のない第二領域をいかに意識し、しっかりと取り組んでいけるのかが、将来への発展性や時間の有効活用という点で極めて大切であることをこの概念は教えています。この第二領域の活動をおろそかにすると、小さな問題が深刻化していき、第一領域の「緊急かつ重要」なことに費やす時間が増えていくという悪循環に陥ることになります。重要なことを大切にしていないために、急を要する問題が頻発するということです。「緊急事態が多くて大変だ!」という人は、それが本当に重要なことなのか、それとも重要なことを避けていたために起こったことなのかを考える必要があるようです(自戒を込めて)。

「すぐ使える」がウリの講習会
 インストラクターやコーチを対象に「明日から使える」や「すぐに使える」をウリ文句にしている講習会をよく見かけます。すぐ使えるか否かをセミナーの良し悪しの判定材料にしている人が多いのかもしれませんが、このような風潮には少し違和感を覚えます。新たな情報をキャッチすべくアンテナの感度を良くしておくことは大切ですが、すぐ使えるものばかりを追い続けている人は、前述した第一領域の中で、もがいているようにも見えます。明日から使えるものを仕入れなければならないという切迫した事情を抱えているのでしょうか?「すぐに使えること」を否定するつもりは毛頭ありませんが、日頃からクラブの指導ソフト構築につながる勉強をする姿勢(第二領域)を持つことがとても重要なことで、それが、ちょっとした情報やヒントからも、新たなものを生み出していく原動力になるのではないかと思います。講習会やセミナーは、新鮮な情報や視点、考え方に気づき、自己啓発につなげたり、知識や技術の土台を充実させるための機会として位置づけるというのが健全な姿ではないでしょうか。

2007年11月8日木曜日

養生訓の世界 (07.11.08)

 本屋に行って「江戸しぐさ」というタイトルのついた本が平積みにされたコーナーを見つけました。「江戸思草(しぐさ)」の「思」は物の見方、考え方(和の世界観)を表し、「草」は日常行動を表しています。江戸しぐさが身についていた社会では、ゆるやかなルールの中の自由があり、説教くさい道徳論ではなく、かっこいい庶民の美学としての「しぐさ(考え方、行動)」を大人たちが率先して行っていたため、子供たちはかっこいい大人に憧れ、その「しぐさ」を真似たそうです。大人が子供のいい見本だった世界がそこにあったということです。まさに、それは「美しい国」であったのかもしれません。

 養生訓で知られる貝原益軒が生きていたのは、江戸時代、高度成長が安定期に入った元禄時代です。衣食住も豊かになり日本の原型が出来上がった時代であり、文芸、学問、音楽など様々な文化が発達した時代として知られています。健康や寿命といったことが、庶民レベルで初めて意識された時代でもあり、健康法である養生書といわれる出版物が大量に出回った時代でもあったようです。

 昨今は、アンチエイジング(抗加齢)という言葉が盛んに使われ、美容、健康食品、スポーツ・フィットネスなど様々な分野で注目を集め、関連商品も広がりを見せています。現代社会では、老いることを嫌い、いつまでも若さを維持したいと誰もが願っています。しかし江戸文化には全く違った思想があったようです。「養生訓の世界(立川昭二著:日本放送出版協会)」に次のような一節があります。

 「江戸という社会は、ある意味で言うと、老いに価値を置いた社会であったといえます。(中略)それに対し、現代の日本は若さに価値をおいた社会といえます。エネルギーやスピード、強さや速さに価値をおいた社会であり、それは力や量の論理であり、若さの文化と言いかえることもできます。
 江戸時代にはエネルギーやスピードといった価値や力や量といった論理はありません。暮らしは自然のリズムにそって流れていたし、人も物もゆっくりと動いていました。人がその一生で蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ちました。そうした社会には年寄りの役割が厳然としてあり、また社会そのものが年寄りのゆっくりとした動きをしていたのです。若さがものを言うスポーツや芸能などなかったし、今いうところの情報も若者よりも老人の方が豊かだったのです。(中略)江戸に生きていた人にとっては、今日とは違って人生の前半より人生の後半に幸福があったのです。江戸時代には、たとえば現代人が最高の願望としている「若返り」という考えはなかったのです。こうした老いが尊く見られ、老いの楽しみを願っていた社会というのは、若さや強さに価値をおいた社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり文化であったといえます。」

 時代や環境が大きく異なる江戸と現代を単純に比較することはできないとしても、現代社会へのアンチテーゼとして多くの示唆を含んでいるではないでしょうか。便利なモノはなかった代わりに、江戸しぐさとして表現される心や粋な行為はあたりまえのこととして存在していたのでしょう。

2007年9月8日土曜日

どうしようと自分の勝手? (07.09.08)

  04年大晦日に母が心不全で亡くなりました。天然酵母パン作りの元祖としてエネルギッシュに活動していた母でしたが、92年夏に風邪で体調を崩し、25年間続けていた教室を休講して以来、心のエネルギーが枯渇してしまったかのように、精力的だった活動をピタリとやめてしまいました。以降、外出を嫌い、家の中で静かに過ごすライフスタイルへと一変しました。

 当然の結果として、部屋の中を移動するだけという極端に少なくなった活動量に身体が適応し、気力とともに体力が年々衰えていきました。実家に帰るたびに「体操したり、散歩したりして身体をもっと動かさなければ、寝たきりになってしまうよ」とアドバイスする私に「お前の言うとおりだね」と同意はしても、行動に結びつかない母を見ながら、心に働きかけて行動を変化させていくことがいかに難しいことかを痛感しました。結果的には、寝たきりになることもなく、不活発ながらも日常生活を送れる身体を維持したまま、それほど苦しむことなく終焉を迎えられたことは、不幸中の幸いだったかも知れません。

 「生活習慣病」からはじまり、「生活不活発病」や「生活機能病」という言葉も生まれています。いずれの表現も、生活における身体活動のあり方が様々な病気や機能障害を作り出していることを警告し、自覚を持たせる意図を持った言葉です。しかし、自己責任病ともいえるこれらの疾病は増える一方で、「笛吹けど踊らず」の状況にあるというのが実情です。

 因果応報といいますが、当然、病気や機能障害には原因があります。自分自身の生活のあり方が、病気や障害をつくっているという理屈は分かっても、病気や障害発生という器質変化にいたる前段階である機能変化の段階では自覚症状が少ないということもあって、どうしても他人事のように感じてしまうのは無理からぬことのようにも思えます。「人は健康のために生きているのではない、だから好きなことをして生きていきたい」という人も少なくありません。もっともなセリフでしょう。しかし、健康を損ねてしまえば、当然、好きなこともできないことになります。生涯にわたって、不自由なく自分の頭とカラダを使い、好きなところへ行って、好きなことを楽しむためには、年齢に見合った心身の能力が必要です。そのためには生活の中で、「ほんの少しの注意と行動」を心がけ、病気や障害を患わない身体作りにも目を向けることが大切です。少しの実行でも、積み重なれば大きな力になるはずです。長期間、床に伏せるような生活は、本人にとっても不幸であるし、家族や周囲の人たちにも不幸を強いることになります。このように考えると、「自分のカラダだから、どうしようと自分の勝手である」というのは、まさに自分勝手な考え方と言えるのかも知れません。

  (「ミドルエイジからの健康塾」前書きから抜粋)